■インドでゲイ・エロティック・アーティストとしての自分を発見!?

——[Part 1]でゲイ・エロティック・アーティストという肩書きへのこだわりについてお聞きしました。この肩書きを名乗り始めたのはいつくらいからなんですか?

田亀:28歳くらいからだと思います。

——そのくらいから、俺はこの道だと自覚した?

田亀:うん、会社を辞めて、その後、半年間ぶらぶら世界旅行に出かけて、よくあるパターンで世界放浪してる間に自分発見しちゃったみたいな(笑)。

——どの辺りを放浪したんですか?

田亀:インドからエジプトまで陸路で行くっていうのをやったんですよ。友達に行けるよって言われて、ああそうかって。

——インドに行くと、悟ったりしそうですけどね。

田亀:悟らないけど変なインドモードにはなりますよ。私、世界放浪する前まで時代の最先端みたいな仕事をしてたんですよ。新しいメディアの開発に携わってたんです。今あるCD‐ROMの規格が一般化する前に別の規格もあって、ほとんど世に出なかったその規格の開発をしていました。私は凸版アイデアセンターから出向して、それのソフトのディレクションというのをやってたんですね。その当時、マルチメディアとかニューメディアとかいう言い方をされていて時代の先端だったんです。

——時代的には90年代ですか?

田亀:80年代後半から90年代前半ですね。アートの世界ではローリー・アンダーソンが出てきて、テクノロジーアートをやって、スーパーハイウェイ構想とか、インターネット時代以前の情報社会みたいな構想がいろいろ打ち出されて、いくつかは実用化もされて。これから夢のマルチメディア時代が来るみたいに謳われてた。

 ただ、まあ、時代の最先端はいいけど、要するに世の中に存在しないものを作ってたんですよ。将来、こういうものが出ますよと。で、私にしてみればそれはリンゴもないのにアップルパイの作り方を研究してるみたいですごいストレスだったんです。それが嫌になって辞めて、いきなりインドとかエジプトとか行くと「CDの研究なんてやってたけど、まだこの人たちみんなカセットテープじゃん!」っていう(笑)。「テクノロジー疲れ」みたいなのがあってその反動で、なおさらスピリチュアルなほうにいったということはありました。チャクラが開くとこまではいかないけど、自分について考え過ぎて、「あ、私はアーティストだわ」と。で、名刺にもデザイナーとかじゃなくてアーティスト、みたいなそういうモードになってしまいました(笑)。

——天から光が差してきたみたいな感じですかね。

田亀:そういうことそういうこと。「私の道はこれ!」って、見つけた気持ちになってしまって。でも世の中そんなに都合よくいかないから、帰ってきてもやる仕事ってのは、ほんとにつまんないデザインの仕事とかそういうのをやってたんです。絵も描けたんでデザインの仕事もやればイラストの仕事もやりますっていう。なんでも描きますよっていう仕事だから、誰々風に描いてくれみたいな仕事ばっかりで、それもまたストレスだったんですよね。

——ちなみに誰風なのを描いたんですか?

当時人気のあった江口寿史さんとか。あと、わたせせいぞうさん。一番難儀したのが北見けんいちさんっていう(笑)。自分がああいうファミリー漫画っぽいタッチの絵を描くのって難しいんだっていうのがわかって。

——北見さんてシンプルな画風ですけど、逆にあれは難しいんですね、あえて描こうとすると。

田亀:いくら仕事しても江口寿史さんの真似みたいな絵が溜まるだけで、ぜんぜん自分の人生にプラスになると思えない。それで、どんどんアート志向が強くなって、じゃあ、自分がやるアートって何って考えたときに、やっぱりエロかなと。そんな時期に『バディ』が創刊したりして、面白そうなんで参加してたら、どんどんゲイ系の依頼が増えてデザインの依頼を圧迫するようになってきた。ある日、デザインのほうの依頼をゲイのほうの仕事が忙しいからと断ったときに、二足のわらじはこれ以上は無理だなと思ったんです。どっちやりたいっていえば、そんな好きでもないパスタ鍋の広告デザインやレイアウトをやるよりは、縛られた男を描いてたほうが楽しいかな、それでお金になるならそっちのほうがいいなと思って、そっちにいっちゃった。

『日本のゲイ・エロティック・アート』Vol.1〜Vol.3(ポット出版)

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