書き手・読み手ーー小説をめぐる当事者性

 小説を書いていて、こういう人に読んでほしいなとか、想定読者っていますか?
 具体的にはいないんですけど、でも全くないと言ったら嘘になる。自分が書いているときに、ティーヌさんを含めて身近な読者の誰かは思い浮かぶんですけれど、じゃあそれに合わせて書いているかというと、別にそうではなくって。読んでくれそうな人たちの像は浮かぶんだけど、想定して書いているのかといえばそうではないです。
 わりと、自分の書きたいふうに書いている感じですね。
 小説、特に純文学の作品って、第一に誰のために書くのかっていうと、自分自身のために書くものだと思うんですね。「小説家が小説を書かなくても誰も困らない」って、今村夏子さんも言っているんだけど、まあその通りだと思っていて。だから結局、誰かのために小説を書くって言うのは、思い上がりも甚だしい、と。だから、最初から想定読者がいて書いているわけではない。ただ、書いた後に、こういう人たちに読んでほしいっていうのはある。
 「五つ数えれば三日月が」は、今はどんな人に一番読んでほしいって思いますか?
 やっぱり、当事者ですかね。特に、若い女性、若いレズビアン当事者に読んでほしいなと思っています。

 当事者が作品を書いたりすることの意義みたいなのってありますか? 私がすごく思っているのは、日本の人は「あんまり自分のストーリーを語らない」ってマーベル社の副社長C・B・セブルスキー氏も言っていて、もっとみんな作れって言っている。2015年に韓国の「ソウル・クィア・カルチャー・フェスティバル」に行って一番びっくりしたのが、みんな同人誌を作っていること。みんなの体験とかを集めて一冊の本にして、パレード会場で売っている。それまで日本のパレードでは見たことなかったので、びっくりしたんです。そんなこともあって、琴峰さんは、当事者が物語を書くということの意義ってどう考えています?
 TRPの会場で同人誌を売っている人もいたよ。小説だったり漫画だったり、レズビアンの歴史を整理した冊子とかを売るブースはあった。文学フリマはたまに行くんだけど、本当にそこの創作力ってすごいものだと思うんですよ。なんか面白いことをやりたいっていう人たちもいるけれど、自分自身の切実な問題を創作の源泉にして何かしら書いて作っている人たちがたくさんいるわけです。だから日本では特に少ないとは思わないんだけれど、たしかに商業ベースの当事者は、そもそも誰が当事者なのかわかんないんだけれども、そんなに多くはないような気もします。当事者が書く意味っていうのは、なんでしょうね、読者としてどう思いますか?
 私はね、初めてレズビアン小説って呼ばれるものを見たとき、22歳ぐらいだったけど、そのとき初めて「あっ、私のための小説だ」って思って、本屋で泣きそうになった経験があってね。で、逆にびっくりしたのは、22歳まで読んできた本たち、あれらは何だったんだって。なんかこう、ちょっと自分とは違う人の物語として受け止めていて、感情移入してなかったんだっていうことがそのときにわかって、いろんなものがひっくり返った瞬間だった。私は22歳で出会えたから良かったけど、でもやっぱりもっと早く出会いたかったって思った。まだ出会ってない人がいるんだったら、1日も早く「これは私の物語だ」って思える作品に、出会う感動と快感を味わってほしいなと思う。だから、もうとにかく、いろんな人が書いてほしいって思うんだよね。
 なるほどね。私、読者として読むときに、あきらかに当事者である人が書くものと、おそらくそうではないだろうという人が書くものって、やっぱりちょっと違うなと思うんですよね。「現実への手触り」とでも言えばいいのかなあ。代表的な例が、中山可穂さんなんですけど。中山さんが書く小説は、もちろんロマンティックなものや奇想天外なものもあるんですけど、一方で、二丁目に行って何かしたり、具体的に、そこに生きているレズビアンの姿が浮かび上がってきて面白い。そういう「現実への手触り」みたいなものを書く人が必要だと思うんですよ。それが、当事者が書く意味なんだと思います。
 うんうん。

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