20年以上にわたってニューヨークで暮らし、アメリカから日本を、そして世界を観てきたジャーナリスト・北丸雄二さん。そこで得た知見をもとに、「LGBT」で人生を読み解きます。

 それにしても人はなぜカミングアウトしたくなるのでしょうか? それはおそらく、自分が何者かという問題と関係します。そしてその「自分が何者か」は、自分だけで片がつく問題ではない。なぜならばそれは常に「自分が何者かわかった」その後で、「その自分を認めてほしい」という承認欲求とカップリングになっているからです。人は一人では生きていけない、という命題は、もちろん物理的に一人で生きていくことができないという生物としての脆弱性を意味していますが、同時に、他者の眼差しによって鏡写しに形成される自我の自己認証なしには(いわゆる)「人間性」を獲得できないということでもあります。狼に育てられた少女ですら、狼たちによる承認が必要だったように。

 つまりカミングアウトもまた、自分が何者であるかの表明に前もって、他者による承認をあらかじめの目的とした行為であるということです。誰も、否定されること、拒絶されることを目指してカムアウトなどしません。



 このとき、しばしばおかしなことが起きます。否定や拒絶を恐れるあまり、主客転倒が起きることがあります。否定や拒絶されないようなあり方の自分を、自分が何者であるかの答えの前に用意してしまうのです。承認欲求が目的化して、本来の自分のアイデンティティに気づく前に承認されるような自分を作り上げる、信じ込む。

 そういう例に、日本に帰ってきてから数多く気づきました。それはいわゆる「空気を読む」という言葉に表れていて、そういえば「KY」などという言われ方は2000年代になって初めて出てきたものです。それ以前はあまり「空気を読め」とかは定型句にはなっていなくて、私は逆に、日本社会は21世紀にかけて教育現場でも個性とかゆとりとかが推奨されてさぞかし自由闊達な社会になっているだろうと思っていました。けれど帰ってきて実際に目に映った日本は、逆に同調圧力が高まって仲間はずれを極端に忌避する社会でした。

 1966年の中央教育審議会の「後期中等教育の拡充整備についての答申」(中教審答申)で出てきた「期待される人間像」という言葉が思い起こされました。教育を受ける青少年に、まるで画一的に愛国心や順法精神を育成するよう促す指針です。いや、愛国心とか順法精神とかそんな大きな話でなくともなんでもいいのです。「期待される」ような自分でいたい、というより、それはそんなにもはや単純ではなくて、「期待される人間像2.0やります」、みたいな、そんな自分を装うというような裏切りを含んでなお、他人を気にする、という、二重底のすくみ具合。



 まあ、自分にとっての自分ではなく、他人にとっての自分を演じるという話はいくらでもできるのですが、それでは話が脱線します。では、逆に、さらに一歩進んで周囲の人々の方が「周囲の人々の期待に添うような自分を演じなくてもいいんだよ」と、同調圧力からの解放を先取りして提示してくれる社会とはどういうものでしょうか?

 1980年代から90年代に至るAIDS禍のピークを経験して、アメリカ社会はこの疫病への対処の仕方だけでなく、そこで生きる特にゲイやトランスジェンダーたちの人権問題にも気づき始めたということはすでに何度も書きました。その時に起こったことは、ホモセクシュアルというアイデンティティ、トランスジェンダーというアイデンティティの発見が、同時にヘテロセクシュアルやシスジェンダーというアイデンティティの発見でもあったということです。言い換えれば、19世紀に「同性愛」という言葉が作られて初めて「異性愛」という存在も発見された(あるいは発明された)。それがやっと、社会の一般大衆のレヴェルにまで降りてきたと言っていい状況になってきたのです。さらにはトランスジェンダーという存在を知って初めて、シスジェンダーという在り方もまた知りつつある──。

 そのとき、性的マイノリティの解放の問題は、性的マジョリティの解放の問題と等価になります。

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