illustration_Fuyuki Kanai ・ 文/加藤慶二

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「憲法」とは?

「憲法」とは、どのようなものでしょうか。端的に言えば、国家の基礎となる法のことで、国家の権力を制限して、私たちの権利を守ることを目的としたルールのことです。

人類の歴史が証明しているとおり、国家が持つ権力=国家権力は、野放しにしておくと好き勝手なことをするようになります。そこで、国家権力に好き勝手をさせないよう歯止めをかけるために、「憲法」は生まれました。

「絶対王政」という言葉を聞いたことがあると思います。「朕(ルビ:ちん)は国家なり」というフレーズとともに、世界史の授業で習ったことでしょう。この「絶対王政」とは、王様(君主)が絶対的な権力を行使して、国を統治する政治体制のことです。いわば、権力者たる王様が、好き勝手にしていた時代です。

このような絶対王政は、イギリスの清教徒革命(1642~49年)、名誉革命(1688年)、フランスではフランス革命(1789年)など、いわゆる「市民革命」によって崩壊していきました。それとともに、国家権力を野放図にしていては、必ず腐敗・暴走する、という反省が生まれました。そこで、生まれた考え方が、国家権力を一定のルール(憲法)に基づいて制限した上で、政治がなされるべきであるというものです。これを立憲主義と言います。そして、このような意味での憲法を、特に「立憲的意味の憲法」、もう少し正確にいえば、「近代立憲主義型市民憲法」などと言います。この「近代憲法」は、一朝一夕で誕生したわけではありません。ここに至るまでには、数百年という時間と、幾多の血が流れるほどの熾烈な闘いがあったのでした。

この「近代憲法」の特徴は、政治の主役を国民としていることです。いままで王様が政治の主役であったと思われていたことを否定して、政治の主役を国民としています(国民主権)。国会・内閣などの機関が政治権力を握っているのは、「憲法」が、これらの機関に国民にある「統治権」を移譲しているからにすぎません。したがって、国会・内閣などの機関は、憲法によってはじめて統治権・権限を委ねられているのであって、これらの機関が、憲法に「してはならない」と書いてあることをすることは許されませんし、憲法に書いていないことについて、勝手にやることは予定されていません。これらは立憲主義違反となるのです。

日本国憲法も、近代立憲主義型市民憲法にルーツを持ちます。したがって、憲法が「してはならない」と書いてあること、「何も語っていないこと」を国家権力が勝手に行うことは、憲法違反であり、立憲主義違反ということになります。 近代立憲主義型市民憲法の基本原理は、時が流れ、時代が変わっても色褪せることなく、「日本国憲法」に脈々と息づいているのです。

「日本国憲法」とは?

日本国憲法は、悲惨な戦争を経て、作られたものです。日本は、軍部の暴走によって過酷な戦争に突き進みましが、2発の原爆投下の末、1945年8月15日、終戦を迎えました。そして、「戦後」が始まり、新しい国の在り方を定めた「日本国憲法」が1946年に公布され、翌年、施行されたのです。

この日本国憲法のポイントとなるのが、三大原則(基本原理)です。中学校の公民の授業でも習ったと思いますが、「国民主権」「平和主義」、そして「基本的人権の尊重」です。

この三つの原則は、それぞれ相互に関連しています。つまり、国民主権を成り立たせるためには、人権が尊重される必要があります。そして、平和でなければ、人権は尊重されませんし、国民主権も成り立ちません。この三大原則が相まって、憲法が機能していくわけですが、その中でも、基本的人権の尊重は、この憲法の根幹をなす最も重要な原則であり、また、LGBTが抱える課題や困難を考える上でもとても大切な基本原理です。以下で、解説していきます。

日本国憲法の人権

「日本国憲法」には、国の形がどういったものなのか。そして、権力者の専横を防止することを目的とするだけでなく、私たち国民が人間らしく幸せに生きるための当たり前の権利(これを「基本的人権」と言います)についてもいろいろと保障しています。いくつかの人権について、紙面の許す限り、少し考えてみましょう。

人権といっても、さまざまな種類があります。表現の自由、信教の自由、思想・良心の自由……。まずは個別の人権について説明する前に、基本的人権の特徴・本質を言い当てた総則的な規定を見たいと思います。

【日本国憲法11条】
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

憲法11条には、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とあります。さきほど、人権にはさまざまな種類があると言いましたが、11条は基本的人権の総則規定と言ってもよいでしょう。本条は、基本的人権の特徴を最も言い当てています。すなわち、人権は人間であることによって当然に有するとされる権利であり(「固有性」と言います)、そしてその人権は公権力によって原則として侵されないこと(「不可侵性」と言います)、人種・性・身分などの区別に関係なく人間であることに基づいて当然に享有することのできる権利であること(「普遍性」と言います)が書かれていると言われています。

まさに基本的人権の特徴・本質を総則として定めている規定なのです。

【日本国憲法13条】
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法の中で、一番重要な条文は何ですか? と聞かれたとき、ある憲法学者は13条を挙げるそうです。それぐらい、憲法13条には重要で奥深い内容が書いてあります。

憲法13条には、「個人として尊重される」とあります。これは、個人主義の原理を表明しています。かつて日本では、「お国のため」「滅私奉公」というスローガンに象徴されるように、国家の存続のため、個人の自由や生命すら犠牲にさせられた過去があります。そのような全体主義に対する強い反省を謳い、すべての人間が独立した人格として平等に尊重されるという崇高な思想を述べています。

また、日本国憲法の条文には、私たちが生きていくにあたってのさまざまな人権について書かれています。しかし、制定されたのが1946年ということもあって、あらゆる人権が明記されているわけではありません。例えば、メディアが発達し、高度に情報化された社会で暮らすにあたっては、プライバシーの権利が必要になってくると思うのですが、この憲法の中に、「プライバシー」という言葉は一度も出てきません。ではプライバシー権は、人権ではないのでしょうか。その疑問に答えてくれるのが、憲法13条です。

「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については……最大の尊重を必要とする」というのは、まさにそのことを表しており、個人の尊重にとって必要な権利を包括的に規定しているものと言われています。この条文を足掛かりにして、プライバシー権や肖像権といった、憲法には明記されていない「新しい人権」が認められるのです。

【日本国憲法14条】
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
(2項以下、省略)

多くの人権規定のなかで、差別を禁止している条文が憲法14条です。もっとも、人には置かれた状況、能力等に違いがあり、機械的に等しい取り扱いを貫くことはかえって不合理な結果となることもあります。そのため、本条は、合理的な区別は許容されるも、不合理な区別(これを差別と言ったりします)を禁止するのです。  そして差別は、人種、信条、性別などのさまざまな特性の違いによって起こります。社会のあらゆるシーンにおいて、不合理な区別(差別)は禁止され、本条の条文の存在によって、私たちは国家から平等に扱われ、不合理な取り扱いが許されないことになるのです。

セクシュアル・マイノリティーと人権

LGBTをはじめとするセクシュアル・マイノリティーの人権も、当然ながら尊重されなければなりません。それはまさに憲法11条、13条、14条で保障されているものであり、セクシュアル・マイノリティーが「“性”と“生”の多様性」を尊重され、性的指向や性自認に関わらず、豊かで幸福な人生を全うするための拠りどころとして、憲法はなくてはならないものといってよいでしょう。

日本の裁判の歴史を紐解いてみると、人と違う生き方が尊重されることを求めて裁判になった例や、不平等に扱われたことで問題になった裁判など、たくさんの事例があります。

日本の裁判史のなかで、セクシュアル・マイノリティーの権利が問題となった事件はいくつかありますが、「府中青年の家事件」と「GID・法律上も父になりたい裁判」はとりわけ有名です。いずれも、セクシュアル・マイノリティーであることで、行政当局から差別的な取り扱いをされた事件でした。

例えば、「府中青年の家事件」は、宿泊施設の利用権に関して争われたわけですが、その施設利用権の背景には、憲法14条、憲法21条(集会の自由)、26条(学習権)といった憲法の規定がその後ろ盾としてあったわけです。あるいは、「GID・法律上も父になりたい裁判」で、性別を変更した男性が、第三者の精子提供で授かった子供の父親として認められたのは、法の下の平等を謳った憲法14条があったからこそといえるでしょう。

裁判では、セクシュアル・マイノリティーを差別的に取り扱うことは憲法に抵触するなどと主張して、多様性のある生き方の尊重を求めました。憲法は、他者と違うことを尊重し、個人を尊重しています。みんな違ってみんないいという思想を、憲法13条をはじめとした条文で謳っているのです。

訴訟において、憲法の存在意義は極めて大きく、憲法があるからこそ、いずれの事件でも最終的に勝訴を勝ち取ることができたといってよいでしょう。

憲法は、目には見えない空気のような存在ですが、私たちが自由で平等な、独立した人間として生きていくうえでは、必要不可欠なものだと言えるのです。

【府中青年の家事件】

[東京高等裁判所判決・1997(平成9)年9月16日判例タイムズ986号206頁]

「動くゲイとレズビアンの会(通称:アカー)」は、同性愛に関する正しい知識の普及や差別・偏見の解消を目的として活動する団体で、1986年3月に設立されました。1990年2月11日、アカーが東京都教育委員会の所轄する「府中青年の家」という宿泊施設で合宿をしたところ、他団体から同性愛者を差別する嫌がらせを受け、施設側に善処を求めたものの、適切な対応はなされませんでした。そして、次回の利用を申し込んだところ、拒否され、その後、都教育委員会からも正式に使用不許可処分が下されました。これに対し、アカーは、1991年2月、この処分が、憲法14条、21条、26条、地方自治法244条に反し違憲・違法だとし、東京都に賠償を求めて提訴しました。

都側は、この宿泊施設の「男女別室ルール」を持ち出し、男女と同様に、同性愛者も同室で宿泊させると性行為を行う可能性があるとし、これは「青年の家の健全育成」という設置目的に反すると主張しました。

第1審(1994年3月)、第2審(1997年9月)ともにアカーが勝訴し、判決が確定しました。東京高等裁判所は、行政当局としては少数者である同性愛者をも視野に入れた肌理の細かい配慮が必要であり、同性愛者の権利・利益を十分に擁護することが要請されているとして、東京都が男女別室宿泊の原則を考慮すること自体は理由があるとしても、何ら利用するにあたって代替案も提示せずに利用を断ったことは、結果的にアカーに対して、不当な差別的取り扱いをしたとして、違法であるとしました。

【GID・法律上も父になりたい裁判】

[最高裁判所決定・2013(平成25)年12月10日民集67巻9号1847頁]

2004年に施行された「性同一性障害特例法」に基づき、戸籍上の性別を女性から男性に変更した男性が、2008年に結婚します。翌年、夫であるこの男性の同意のもと、第三者の精子提供を受け、その妻が人工授精で長男を出産します。夫婦は長男を二人の嫡出子として出生届を作成し、東京都新宿区に提出しました。しかし、新宿区は、男性を父と認めず、戸籍の父親欄は空欄のまま処理されました。これに対し、男性らは、民法772条(嫡出推定)、性同一性障害特例法4条1項、憲法14条に違反するとして、戸籍の訂正を求めて提訴しました。

2012年10月の第1審、同年12月の第2審ともに、この男性に生殖能力がないことは明らかであり、嫡出子として推定できないとして、申し立ては退けられてしまいました。

しかし、2013年12月の最高裁では一転して、男性を父であると認めるという判断がくだされたのでした。つまり、特例法によって性別を変更した者に婚姻という道を開いておきながら、他方で、婚姻で当然享受できる主要な効果である嫡出推定を認めないことは妥当でないとしたのです。これによって、長男は、この男性の嫡出子として扱われることになりました。

*本記事は『BEYOND』issue 2「2016年秋号」から転載したものです。