LGBTの連帯における幻想と戦略
テ 最後に、どうしても聞いてみたかったことがあってね。LGBTとか、レズビアンとか、セクシュアル・マイノリティとかっていうアイデンティティを獲得したときの安心感って、すごくよくわかるんだけど、それと同時に、「根拠もなく世界中のLGBTとつながってしまう」感覚っていうのが、ちょっと気持ち悪いなって思う瞬間も、私の中にあるんですよ。それを強く感じたのが、この前『コールド・ウォー あの歌、2つの心』っていうポーランド映画を見たとき。共産主義政権下のポーランドの民族舞踊団が、モスクワの当局に気に入られて、共産主義各国で公演をするっていうストーリーなんだけど、要は共産主義っていう思想に乗っちゃうと、どんなに貧しい村の田舎の少女も、世界中を飛び回って拍手喝采を受けられる。その映画を見たときに、ユーゴスラビアの人がポーランドの田舎の舞踊を見て本当に感動するのかって疑問に思って、気持ち悪さを感じた。で、LGBTに対しても、私、若干こういう感覚を持ってるなって思ったんです。琴峰さんは、「越境」っていうのがテーマの一つだと思うんだけど……全然まとまってない……。
李 え? 何を聞きたいの(笑)? 根拠のない連帯感に違和感を覚えるのはわかる。
テ うーん、何を聞きたいのかな(笑)。例えば、英語が話せれば、スペイン語が話せれば、中国語が話せれば、いろんな人たちと話せるみたいな感覚とかと近いのかなって思って。LGBTであれば、地球の裏側のLGBTとも手をつなげるはずだみたいなことに対して、「そんなことないよね、ちょっと待って」という……。
山 LGBTの中にもいろんな人がいて、ゲイだからといって、LGBTの運動に積極的な人もいれば、そうでない人もいる。「それでも、人種も超え、民族も超え、LGBTが手をつなげる」みたいな変な妄想のような、そんな感覚?
テ うん、そうそう。海外に行ったときに、現地の日本語学校の先生とか、日本語を学んでいる人たちと話をしていて、「あ、こんなに話が合わないんだ」ってびっくりするときもある。それは同じ言葉を使っているだけで、全く考えも好きなものも政治的な志向も全然違うなって思う瞬間があるから、ものすごく当然なんだけれども。自分がね、この連載みたいに、LGBTっていうものに乗っかって何かをやったり書いたりしている人として、この違和感とどう向き合えば良いのか、と。この違和感を持ち続けていなきゃいけないなと思う半面、それと同時に、日本の全てのレズビアンは琴峰さんの作品を読むべきとも思っているの。今、このアンビバレンツな感覚があって。琴峰さんもこういうこと考えたりします? って聞きたかったの。
李 もちろん、考える。「セクシュアル・マイノリティであること、あるいは自分のセクシュアリティや、あるいは同性を愛すること、性自認と生まれ持った性別が違うことなどは全く個人の問題であって、他者と別に連帯しなくてもよい、自分で解決すればよい」というような極端な考えと、「世界中のLGBTやセクシュアル・マイノリティは全部連帯できる」というような極端と、やっぱりどちらも行きすぎていると思うんですね。そんなわけないじゃん。性別を変えるとか同性婚とかは、完全に社会的な問題だから、ある程度、他の人と手をつないで連帯して解決しなければいけない。決してそこまで個人的な問題ではないはずなのに、それをわからないと危ない。かといって、全てのセクシュアル・マイノリティが手をつないで協力できるかというと、そういう幻想を信じているのも危ないと思う。
テ うんうん。
李 だから結局、両極端のどちらでもなくて、その中でそれぞれが自分の立ち位置を探すしかないと思うんですよ。私自身も、両極端に戸惑いながら、自分の立ち位置を探す、というのを日々やっていると思う。世界中のLGBTが連帯できるっていう幻想は疑わなければいけないんだけれども……。2015年に、一人でふらっと中国を旅したときに、レズビアンの友達の紹介で北京のLGBTセンターを訪ねたり、あるいは、西安に住んでいるレズビアンカップルを紹介してもらって会ったりとかもして。その中で一人の友達が、「世界のレズビアンは仲間だ」って言ってくれたの。そう言ってくれるのは嬉しいし、自分にとっては異国・異境に行って、セクシュアリティというところで仲間がいて、連帯する安心感が得られる。その安心感を享受しつつ、世界中の全てのLGBTが連帯できるという幻想に気をつけながら生きてゆくしかないのかなって思う。
テ うん。私、大きなレインボーフラッグとか見ると、ちょっと嬉しくなる。今のエピソードでもきっと、そんなことを言われたら、ウルってきちゃう。
李 うん。だってね、初めて訪れた、何も知らないところでね、中国語だけど(笑)、そういうことを言われると、やっぱり嬉しいじゃない。