小説と「政治」

 私は、この「五つ数えれば三日月が」と「セイナイト」(単行本『五つ数えれば三日月が』所収)を読んだ後に、「恋愛に没頭したい!」ってすごく思ったの。『独り舞』も素敵だったし、まだ単行本化されていない「ディアスポラ・オブ・アジア」とかは割と政治的というか、LGBTとして生きてゆくことは、自分がどの政府の下にいるのかっていうのを意識せざるを得ない、っていうのがテーマだったのかなと思ってて。けれど、この「五つ数えれば三日月が」と「セイナイト」は、私にとってはすごく純愛で、ロマンティックな物語だったんですが、それは何か意図や思いがあってそうなったんですか?
 ない(笑)
 あ、ない(笑)。自然にこうなった?
 まず「ディアスポラ・オブ・アジア」っていうのはちょっと別で、これはそもそも『三田文学』2017年秋号に「主張するアジア」という特集があって、そこへの寄稿依頼が来たんです。その特集では、劉暁波とか、高行健とか、有名な人にも原稿を依頼していると聞き、しかも特集のタイトルが「主張するアジア」で、これは政治的なことを前面に出してみてもいいのかなって思った。と言っても、基本的にここで表したいのは、個人が規定される苦しみ。人は、国籍だとか言語だとか出生地だとかいろんなものから規定される存在なんだけれども、それでもその規定から抜け出そうとする、そういう姿勢とかそういう生き方が書きたかった。その結果、政治色が強くなった。
 うんうん。
 だけど、「独り舞」や「セイナイト」「五つ数えれば三日月が」は、政治的なことを書きたい、出したいと思って書いたわけじゃない。ただ、政治というものは、あらかじめそこに刻印されているものとして、自然と現れてくると思うんです。特に「独り舞」の場合。で、「五つ数えれば三日月が」も読み方はいろいろあると思うんですが、政治が関係ないわけじゃない。例えば、今回の芥川の選評で、吉田修一さんはそこを読み取ってくれて、「本作にあるような淡い恋愛の風景でさえ、実は入国管理官(政治)のハンコ一つの上に成り立っている」と評してくれました。そこを意識して書いている側面もあるんだけど、でもそれを前面に出すというよりかは、「そういうものだ。現実としてそういうことが起きる」というふうに書いている。だから戦略も意図もなくて、ただ実際そういう人たちがいて、苦境に立たされている。政治から影響を受けている。そういう人たちを書きたい。自分自身も含めて。
 この間に、台湾人ゲイ男性Gさんの退去強制令書発付処分等取消請求の裁判が起こって、結果、在留許可が下りたけれども、そのこととかも影響していますか?
 その裁判が実質勝訴を得たのは、今年の3月中頃だったと思うけれども、この小説の原稿を書いたのは去年の10月あたりだから全く関係ない。でも、私自身、去年の9月末に永住許可が下りたんです。それまでは、会社に勤めなければ日本にすら住めなくなるという不安定な状況で。そういう危機感がこの小説に滲み出ているとは思うんです。

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