台湾と人権問題
台湾はアジアではじめて同性間の婚姻の法制化を成し遂げ、台湾外交部が「アジアにおける人権の灯台」たることを誇らしげに宣言したことは、この連載第2回でも紹介した。台湾でLGBT(台湾華語で「同志」)というマイノリティの問題が人権という角度から議論されてきた背景には、国際社会に対してことさら人権を尊重する姿勢をアピールする必要性があったという事情がある。それは台湾がおかれた特殊な国際的地位と関係がある。台湾の憲法に記された正式の国名は「中華民国」(REPUBLIC OF CHINA、略称ROC)である。しかし、中華人民共和国の国連加盟を契機に、1971年に国連を脱退してからは、正式に国交を結ぶ国を次々と減らし、台湾は国際社会の孤児ともいうべき存在となっていった。
日本も1972年に中華民国(台湾)と断交し、中華人民共和国と国交を結んだ。いわゆる日中国交正常化である。断交とは国としての承認を取り消すということであり、その後、日本は台湾との間で民間の関係だけでつながることとなった。最近も中国との金銭外交に敗れて、南太平洋に浮かぶソロモン群島、キリバスと相次いで断交し(2019年9月16日、20日)、国交をもつ国は世界中にわずか15カ国となった。中国は台湾を国際社会から締め出し、統一を迫ろうと画策しているのである。
このように生存空間を狭められた台湾にとって、人権という旗印は、自由、民主主義、法の支配などと並んで、独自の存在意義を世界に主張するための砦となっている。近代の普遍的価値を先進国と共有するのは、強大でお金持ちの中国でなく、自らなのだと主張することで、生き残りを図ろうとしているのである。LGBTの人権、同性間の婚姻の問題も、早くからこの文脈で政治化されてきた。
民主化とLGBT団体の誕生
日本の敗戦後、台湾は当時、中国全体を統治していた中華民国によって接収され、中国の一部となった。しかし、1949年には中国共産党との内戦に敗れた中華民国政府は、国ごと台湾海峡を渡り、台湾へと敗走した。こうして台湾海峡を挟んで、台湾にある中華民国と北京を首都とする中華人民共和国が敵対する構造が生まれ、それは戦後の国際社会における冷戦(アメリカ・資本主義陣営とソ連・社会主義陣営の対立)のなかで、長く固定化された。台湾では中国から渡ってきた国民党による非民主的な一党独裁体制が継続し、戒厳令が解除されるのは1987年に至ってからであった。この時代、LGBTは文学の世界に登場することがある以外は、現実にはアンダーグラウンドの世界に押し込まれ、ひっそりと二重生活を送るほかなかった。
90年代に入ると政治の民主化が動き出し、野党の結成が合法化され(党禁という)、競争的な選挙が行われるようになった。同時にプレスの自由が解放され、権力を批判する言論の自由が拡大した(報禁という)。さらに市民社会が活性化しはじめ、LGBT当事者の組織化も始動する。1990年には最初のレズビアン団体「我們之間」(私たちの間)が、1993年には大学LGBTサークルの先駆けである台湾大学「男同性恋問題研究社」(GAY CHAT)が誕生する。2000年には最初の全国的LGBT団体として財団法人台湾同志諮詢ホットライン協会が内政部に登録され、正式に発足した。
台湾の民主化を主導した李登輝総統(ミスター・デモクラシー)の退任後、2000年の総統選挙で、野党・民進党の候補、陳水扁が国民党候補を破って当選した。民主的な選挙によって中国国民党統治にピリオドを打ち、ついに初の政権交代が実現した。日本に遅れること9年後の2003年11月には、最初の台湾同志パレードが、「見えたぞ、同性愛者(看見同性戀)」をテーマに、台北西門町周辺で開催され、500人余りが参加した。