パイオニアの生い立ち

 台湾における婚姻平等化のプロセスを振り返るとき、40年以上も前からたったひとりで同性間の婚姻を求め続けてきた人物、祁家威の存在を忘れることができない。祁氏は近年、台湾各地で開催されるLGBTのパレードでは、必ず参加者を見下ろす高いところに立って、レインボーフラッグを振る姿を見せてくれる。それは長年、孤高を持してきたその生涯を象徴するかのようでもある。

 今年、齢61歳を迎え、すっかり白髪が目立つようになった彼は、「著名な同性愛者」「台湾初のオープンリーゲイ」「ベテランHIV活動家」「ベテランLGBT活動家」「クィアのパイオニア」「奇抜な人物」「もっとも早く姿を現したLGBT界のスター」など、さまざまなタイトルで呼ばれてきた。彼は28歳から今日まで、一貫して特定の職業をもたず、所属団体もないまま、純粋に個人で活動を続けてきたミステリアスなレジェンド的人物である。台湾における同性婚運動のパイオニアでありながら、特定の団体を作ったことのない人物なのである。

 筆者は去る2018518 日午後、台北市内で祁氏に対してインタビューする機会を得た。今回はその時伺ったことを交えつつ、祁氏を中心に台湾における40年を超える婚姻平等化運動の軌跡を振り返ってみたい。

筆者のインタビューに答える祁家威氏(2018年5月18日)。

祁氏は1958年、台北生まれで、父君は中国福建省から国民党政権とともに戦後、公務員として台湾に渡った外省人二世である。日本統治時代に創設された名門の男子校、台北建国高校在学中、2年生の16歳のときには、自分がゲイであることを自覚し、学校ではすでにカムアウトしていたという。当時の台湾はまだ白色テロが吹き荒れ、権威主義体制が支配し、セクシュアリティの多様性にも寛容度を欠いていたと想像されるが、なぜか祁氏は自身の性的指向のことで、学校ではことさらいじめられたり、排斥されたという記憶はないという。

 高校では留年したが、大学には進学せず、自学で新聞学、法学、政治学などを学んだ。兵役後、一時、学習塾の教師をしたが、まもなく退職。以後、特定の職にはついたことがなく、パートナーが生活を支えていた。ゲイの出会いの場(ハッテン場)として日本植民地時代から名高い「新公園」(現在の「二二八公園」。毎日出勤するところという意味で「公司」[=会社]とも呼ばれた)にも、この頃から出没するようになった。

宜蘭レインボー・プライドで高所に立ってフラッグを振る祁家威氏(2019年5月25日)。

1 2 3 4
>

バックナンバー