国際記者会見でのカムアウト
台湾がまだ戒厳令のもとにあった1986年3月7日、28歳の祁氏は、自分で記者クラブのメールボックスにビラを配布して、外国メディア向けに、台北市の、あるマクドナルドの店内で記者会見を開いた。そこで祁氏は、「社会の皆さんおよび同性愛者に対する心からの声明と呼びかけ」と題する文書を発表し、社会がもっと同性愛者を理解し、その人権を擁護すべきであることを訴えた。この会見で彼は台湾ではじめてゲイであることをメディアの前でカムアウトし、話題になった。これ以後、祁氏は1996年11月に作家、許佑生氏が、ウルグアイ系アメリカ人の同性パートナーと台北福華飯店で公開の結婚披露宴を開くまでは、台湾で社会的にカムアウトする唯一のゲイであった。
90年代半ばまで台湾では同性愛、「性偏向」(sexuality)、性的マイノリティといった言葉が公共空間に登場することはほとんどなく、「同志」(LGBT)は完全に不可視化されていた。1987年の戒厳令解除後は押さえられていた各種の社会運動が一斉に勃興するが、同志運動に関心をもつ者はなく、同性愛者の人権を論じる余地などない段階であった(王雅各『台湾男同志平権運動史』開心陽光出版、1999年、27頁参照)。同性愛は善良なる風俗に反する変態であって、当事者たちはアングラ化、周辺化され、お世辞にもLGBTフレンドリーなどと言える社会ではなかった。
現実の同性愛者は身を潜め、公共空間に姿を見せることはほとんどなかったが、文学の世界では比較的早い時期から「同志」が登場していた。台湾LGBT文学のバイブルとも言われる白先勇の小説「孽子」(げっし)が、1977年から発表されていた(日本語訳は陳正醍訳『孽子』国書刊行会、2006年)。興味深いことに、その後も台湾では「同志」を扱った高水準の文学作品が次々と生み出され、「台湾の発明」とも言われる「同志文学史」が形成されている(紀大偉『同志文学史』聯経出版、2017年、参照)。日本語でも黄英哲ほか編『台湾セクシャル・マイノリティ文学』(作品社、全4巻)として、代表作が紹介されている。
運動家としてのスタート
1986年は祁氏が初めて公に同性パートナーとの結婚を求める行動を開始した年でもあった。当時、台湾民法では婚姻の成立は公の儀式によるとし、それを裁判所の公証処で公証するという手続を採用していた。祁氏は台北地方法院公証処へ出向き、同性パートナーとの結婚について公証を求めたが、拒否された。そこで立法院(国会)に請願を行うが、「同性愛者は少数の変態であり、もっぱら情欲を満足させることを求める者で、社会の善良なる風俗に違背する」として、これまた拒絶に遭う。
当時はまだ戒厳令下にあり、人権運動をすること自体が政府にとっては政治的にデリケート(反権力的)な意味合いをもった。8月15日に祁氏は警察に呼び出され、その後、翌年1月23日まで162日間にわたって身柄を拘束された。一種の政治犯の扱いであり、後に総統になった陳水扁氏、台湾独立運動家の鄭南榕氏、民進党・元立法委員の黄天福氏らと同じ看守所に捕らえられたという。釈放後には戒厳令が解除され、台湾はしだいに政治の民主化へと向かうが、祁氏によれば釈放後も当局からの監視は長期にわたって続き、電話や信書の盗聴、傍受が行われていたらしい。
祁氏は同時にHIVの予防啓発活動をひとりで始め、行政と感染者の間の仲介役を務めていた。1991年からは数年間も継続して、コンドームの着ぐるみなど、奇抜なコスチュームに身を包み、各地の夜市(ナイトマーケット)に立ち、募金の呼びかけを行った。また、個人の電話番号を公表して、HIVに関する電話相談を受けつけた。そうしたことに率先して取り組む彼は、台湾の同性愛者のなかではかなり「浮いた」存在でもあった。その姿は同性愛者たちからも目を背けたくなる変人として忌避され、見てみないふりをされたのである。レズビアンはともかく、ゲイたちからは同じ仲間とは思われたくない奇人扱いを受けたという(台湾LGBT諮詢ホットライン・鄭智偉氏)。
再び同性婚を求めて
祁氏の同性婚を求める行動は、その後も断続的に繰り返される。1992年には、今度は行政院(内閣)内政部戸政司に対して同性間での婚姻を求めたが、同様に拒否された。1994年7月、再度、内政部戸政司に出向き、民法は同性間で結婚できないとも、異性に限定するとも規定していないとして、婚姻を受け付けるように要求した。内政部は法務部へ本件を移送し、法務部は「わが国現行民法でいう結婚とは、必ず一男一女の結合関係であり、同性間の結合はこれには当たらない」と回答した。
1998年11月、祁氏は再び台北地方法院公証処へ赴き、結婚の公証を求めたが、はやり拒否される。そこで行政訴訟を提起するが、民事訴訟によるべきであるとされ、今度は民事訴訟を提起する。しかし、台北地方法院、第2審の台湾高等法院はいずれも敗訴判決を下す。そこで2000年9月に司法院大法官会議に対して憲法解釈の要請を行った。大法官は祁氏の個人的見解を述べるに過ぎず、申請には現行法が具体的にどのように憲法と抵触するのかが、記されていないとして、門前払いで申請を却下した。当時の一部の大法官によれば、結婚の要件は民法に規定されており、同性愛者が結婚できるかどうかは、立法裁量の問題であって、違憲を論じる余地はないと述べたとされる(中時電子報2001年5月18日)。